デカルト『方法序説』④

デカルト『方法序説』 160626④.mp3 2016年6月26日定例読書会録音。デカルト『方法序説』の最終回でございます。前回述べたように宗教的影響力から科学的にも言及できることの制約があった中、デカルトも自身の学問観を言及せざるを得なかったという時代状況がありました。デカルトの方法序説に抗弁的なものを感じるとしたら、キリスト教の権威から危険視されない為の配慮をせざるを得なかったためだということが言えるのかと思われます。 また、デカルトがこの作品をフランス語で著したということにも注目しました。学問的にラテン語で文章を書く事が知識人の常識であった中でフランス語を使ったことについては、「学問というのは一体だれのためのものか」という問題提起の意味も込められていたことが分かります。 背信の締めとして、「自我」という概念が後の時代や我々に与えた影響についても言及しています。夏目漱石が『吾輩は猫である』でデカルトのことに触れているように、明治期を経ていく中で日本人は自我というものに目覚めていきます。それは個人主義の目覚めであると同時に、個であることに悩むという近代人のジレンマの萌芽でもあったと言えるのかもしれません。

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デカルト『方法序説』③

デカルト『方法序説』 160626③.mp3 2016年6月26日定例読書会録音。デカルト『方法序説』三回目でございます。デカルトの「我思う故に我あり」という思想は、自我の絶対性を高める形となりました。「~を意志する」というような言葉も、実は個人という存在を前提とする言い方です。「自己実現」という今ではありふれた言葉も実は「我」が近代を支える大前提となる概念であるということが言える訳です。 また「我」の絶対性により人間と自然との関係は転倒し、「人間は自然の支配者」という発想が生まれました。文明が自然をコントロールし、そして人類の都合で開発される事が躊躇なくされることも、元をただせばデカルト哲学の中にその端緒があると言っても過言ではありません。 「我」を絶対化する考え方は大きな影響力があると同時に、人類にとっては大きな弊害を生み出してきた側面は否定出来ません。しかし、それは人類の歴史上必要なことでもありました。その根拠を探る時に参照にするべきはデカルトの生きた同時代におけるキリスト教の影響力です。ガリレオ=ガリレイの裁判など宗教的な信念から非科学的な学説が支持され、キリスト教の教義に沿わない説を唱える学者が徹底的に糾弾されてきた歴史がありました。その過程で刑死した哲学者もいた程です。 宗教的権威の弾圧がありながらも、「神」やそこから生じる蒙昧を乗り越える思想の登場は時代が求めたものだったと言えるのかもしれません。同時に、新しい哲学を唱えそれを推し進めるということが時に非常…

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デカルト『方法序説』②

デカルト『方法序説』 160626②.mp3 2016年6月26日定例読書会録音。デカルトの方法序説二回目となります。デカルト思想の特徴について考えていきたいと思います。とにもかくにも、「自我」の発見は近代哲学では無視できないデカルトの功績になるかと思います。デカルトの学問の手法は徹底的に物事を疑って見つめる「方法的懐疑」です。疑った果てに残るのは考えている自分自身、これが有名な「我思う、故に我あり」という名言に繋がっていきます。この自我と方法的懐疑により、学問は近代以降より厳密性を追求する性質を帯びることになった訳です。 また、「我思う」の「思う」は何処で行っているのかという問題意識から身体の機関から独立した精神活動の場を確保されているという確信によりデカルトは「心身二元論」の立場を取ります。「心と体」という今では当たり前のように使われる言葉の基盤になっているのも心身二元論となります。それだけ見ても、デカルト哲学が現代にも強く影響を与えていることが分かってくるかと思います。

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