デカルト『方法序説』③




2016年6月26日定例読書会録音。デカルト『方法序説』三回目でございます。デカルトの「我思う故に我あり」という思想は、自我の絶対性を高める形となりました。「~を意志する」というような言葉も、実は個人という存在を前提とする言い方です。「自己実現」という今ではありふれた言葉も実は「我」が近代を支える大前提となる概念であるということが言える訳です。

また「我」の絶対性により人間と自然との関係は転倒し、「人間は自然の支配者」という発想が生まれました。文明が自然をコントロールし、そして人類の都合で開発される事が躊躇なくされることも、元をただせばデカルト哲学の中にその端緒があると言っても過言ではありません。

「我」を絶対化する考え方は大きな影響力があると同時に、人類にとっては大きな弊害を生み出してきた側面は否定出来ません。しかし、それは人類の歴史上必要なことでもありました。その根拠を探る時に参照にするべきはデカルトの生きた同時代におけるキリスト教の影響力です。ガリレオ=ガリレイの裁判など宗教的な信念から非科学的な学説が支持され、キリスト教の教義に沿わない説を唱える学者が徹底的に糾弾されてきた歴史がありました。その過程で刑死した哲学者もいた程です。

宗教的権威の弾圧がありながらも、「神」やそこから生じる蒙昧を乗り越える思想の登場は時代が求めたものだったと言えるのかもしれません。同時に、新しい哲学を唱えそれを推し進めるということが時に非常に危険なものであるということは哲学を学ぶうえで常に認識しなければいけない事でもあるかと思います。言葉尻を捉え「デカルトの思想は足りない」などと言うことは簡単です。デカルト本人が生きた現実社会の中でどのような艱難辛苦を彼や彼の同時代の思想家が経験したのかを認識した上で読み返すと、とてもそのようなことは言えないということが分かってくるのではないでしょうか。










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